スポーツでは練習しない人が試合で勝つ道理はありません。しかし勉強となると『才能(もともと頭が良い)』が最優先され、日々の勉強〝量〟が否定されるのはどういうことでしょうか?
スポーツに比べ、勉強は日々の努力(トレーニング)を人に見られることがありません。
見ていない分、「あいつ、(一見)勉強していないように見えるが、なぜ成績は良いのか?」との思いが湧くのです。
見ていれば、「あいつ、あれだけやってるんだから‥‥。」となるわけです。
実際、本当に〝量〟をこなしていないにもかかわらず、テストの点数が取れる人はいます。少数ですが。
そしてその少数を引き合いに出して、自分の不努力の方便にするのが大方の人の思考であることが残念です。
「勉強ができるのは努力不努力ではない。もともとの頭の良さである。」と。
そこまで都合の良い勉強観を持っていないけれど、『優秀な指導者の、言われただけをやりさえすれば最小の努力で最高の結果が出せる。』と思っている向きもあるので難しいところです。
その心理の表れが「どうすれば良いんですか?」という質問です。
国語を例に出すとその質問に答える最初の回答は「新出漢字をため込まずにやってください。」です。
それだけでいいのか?
はい。悲しい結論を言うと、「どうすれば〜?」の質問を投げてくる人の殆ど全ては、それさえやらないのです。
部活がしんどかった。他の宿題で手一杯だった。最近身体がダルかった‥‥etc。
理由はなんでもよいです。
「漢字をサボらずやってください。」
ただそれだけのミッションを、信じてくれないのです。
英語であれば、「新出英単語を後回しにせず覚えていってください。」です。
まずはそこをやり遂げてから、次の指示が出せます。
スポーツを例に出すと、基礎体力(心肺機能の発達)がないと試合には勝てません。基礎体力をつけるには、何をすれば良いでしょう?
言うまでもない話です。
いくら部活等で走り込みをたっぷり行っても、プライベートな時間で食生活の乱れ(お菓子でお腹いっぱい)や生活リズムの崩れ(夜更かし、長時間のスマホorゲーム)を許せば、培ったスタミナは水の泡です。
同じく、勉強すると同じか、それを上回るデジタルデバイスに費やす時間が、学習効果を失わせます。
最大の効果を出したいなら、禁欲に徹するか、決めた限度を守る意志の強さしかありません。
手軽な思考法やメソッドに走らないことです。
コロナウィルスの蔓延で、自己の行動責任がつとに叫ばれる時代になって久しいです。
前向きに解釈すれば、真っ当に自己のやるべきことを誠実に果たす人が評価される時代とも言えるわけです。
全てを世の中のせいにせず、『人としていかにあるべきか?』という自問に、ヘタに世の中分かったようにイキらず、誤魔化さず、過去の人生の悔しさに復讐しようとしない自答に従って行動すれば、誤った結果は出ないと信じます。
そうである世の中でなければ、生きる価値はありません。
勉強することの意味は、一つに、人としての正しい生き方に気づくことであると思います。