ここ数年、とみに「話をキチンと聞いていないな。」と感じることが多いです。
これは生徒のみならず、政治家やタレントの発言でも、切り取られた言葉のみに強く反応して、多くの人が怒りを表すケースがよくある気がします。
生徒の特徴的な反応として、こちらの問いかけにも
「‥‥‥‥‥。」
で反応が無い。ワザとでは無く、
「じゃあ、問2と問3の問題をやってください。問1は飛ばしてくださいね。」
「‥‥‥‥‥‥。」
「これは、こう解きます。例えばこうした時、どうなりますか?」
「‥‥‥‥‥‥。」
分からないから黙っている、ではなく明らかに心ここにあらずでフリーズ?している状態。
こういう時、自分は〝怒り〟というより「なぜ???」という思いに駆られます。
いろいろ仮説は立てられるのですが、一つに『自分の好む情報以外は聞きたくない見たくない。』という心理が日常の習慣で根深く染み込んでいるのではないか?と。
テレビをぼんやりと見なくなった昨今、スマホやタブレットの動画は自分の好きなものを連続して次々と、好まなければドンドン省いて見ることができます。
少しでも自分のペースで事が運ばないことに強いストレスを感じてしまう。簡単に言えば我慢する力が無い。
勉強はいつも面白いとは限りません。苦痛でもやり切る精神力が試される局面は多々あります。
良い指導者とは〝触媒〟でなければならないと思います。生徒が自身の力で解答を導く手助けをする存在です。
指導者がいかなる時でも手取り足取り優しく教えていては、いつまで経っても生徒の自立は望めません。
この辺りの塩梅が非常に難しいのですが、最近は特に意識して、あまり先回りして丁寧に解答に至る誘導をしないようにしています。
『自主性に任せる』という言葉を自らの責任放棄の方便として使うのは論外ですが、懇切丁寧な指導が行き過ぎると、生徒はいつまで経っても安易な「どうしたらいいですか?」の発問から逃れることはできません。
まずは自分を主張する前に相手を理解しようと努めること。その第一歩として、他人の話を〝聞ききる〟ことが大切です。
少しを聞いて「ああ、わかったそれね。それはこうでこうでああで‥‥。」と他人の話を勝手解釈で言い返さない。まずは黙って適切な相槌を打ちながら聞く。
的外れで状況にそぐわない自己主張よりも、傾聴こそがなによりの主張であると思います。〝他人に対する尊敬〟にも適います。
まずは聞く。自らの好みには合わなくとも。他のことを考えたくても。