喋りたい教えたい

指導者なんてのは基本『教えたがり』なので、聞いていようが無かろうが次から次へと、それこそ『良かれ』と思って喋るのだけれども、聞く側はその長さとボリュームに疲れてしまい、その内容をおよそ覚えていないという悲劇が往々にして起きてしまいます。

それを、「聞く側(生徒側)のヤル気の無さ」と断ずるのは教える側の怠慢であると思うのです。

昨今は特に『自分だけが喋りたい』人が多すぎて、単に聞く(聞くことができる)だけで大したスキルのように感じてしまいますが、このような現況では、主体的・協働的な学びを実践していくのはなかなか困難であると思います。

個人指導は集団指導と違い、生徒の側の発言を引き出すのは容易です。集団の中での発言の恥ずかしさも指名の偏りもありません。

なんにせよ、生徒の様子を余すことなく見ることができます。

それに応じて声掛けや内容の密度を調整して、最も効果的に学習内容が理解できるようにするところにこの仕事の妙味があります。

自分のことを理解して欲しくない人間はいません。よって、指導者たる者は、「喋りたい」欲求に加えて「教えたい」欲求があるので、とにかく聞く側の都合・しんどさは考えずに長時間一方的に説明し続ける人が多いです。

それは仕方のないことではありますが、自分は出来るだけ、あまり自分だけが話しすぎないよう、自己主張が得意でない生徒にも発言が容易にできるよう努めています。

10代の若者に社会経験が乏しいのは当然で、あらかじめ知って欲しい一心でアレコレとボリュームいっぱいに伝えても、クド過ぎて長過ぎてその一端の内容も心に残らなければ、伝える側の熱意は徒労に終わります。

最低限だけれど最適な説明をして、生徒が自力で問題解決(解答)できるよう、今日も奮闘します。