咳をしても一人

尾崎放哉(おざきほうさい)の句です。

どこかで見たこの句。

一人で暮らしていれば、そして頻繁に訪ねてくる人も他におらず、(電話その他の方法で)誰とも他愛のない言葉のやりとりをしない夜などは、嫌でも孤独を感じざるを得ません。

自分の一人暮らしは大学時のみですが、薄暗い木造アパートで味わった孤独が本当に辛かったのです。

実家に帰って両親と再び暮らすようになっても、しばらくすれば年相応の『自分を好いてくれる異性がいない寂しさ』に身をつまされることになりますが、自分の都合の良い時に都合良く異性がいることなどありません。

30を越えて程なく、伴侶が見つかったのは幸せでしたが、結婚による〝嬉しさ〟よりも〝安堵〟の気持ちの方が大きかったように思います。

それはともかくも、タイトルの『咳をしても一人』な状況ではなくなったからです。

天気、ご飯の味、風呂掃除をしたか否か、何を買う必要があるか‥‥etc、何かの言葉をこちらが発すれば、何かの言葉が返ってくる、ただそれだけのことが『咳をしても〜』な寂しさはもちろんのこと、〝自由〟すら上回る。

自分の認識と実感はそうです。

孤独(または孤立)や暇がもたらす人間の寂しさ紛れの行動や、そこから至る思想が、自分は独身の頃から共感できません。

さて、タイトルにある句の作者、尾崎放哉についてですが、自由律俳句の代表として、教科書にはよく取り上げられます。本年度から使用されている教科書(左: 三省堂 現代の国語3)と昨年度までの教科書(右: 光村図書 国語3)より

『入れものが無い両手で受ける』

‥‥何を?

 

教科書には未収録ですが、その他知り得る彼の俳句を幾つか。

『墓のうらに廻る』

何をして?

『冬川にごみを流してもどる』

‥‥一体何を?

『朝早い道のいぬころ』

‥‥それが?

『すばらしい乳房だ蚊が居る』

‥‥‥

すいません、もうやめます。

俳句や短歌はいいです。今だからこそ、日々やりとりする中身の無い言葉が消費されるだけの現代だからこそ、一つの文字に拘り抜いて発せられるそれらを感じ、学ぶ意味や効果は大きいと思います。