それは歓迎される個性ではない!

労せずして手に入れたもの(生まれつきも含む)、そして基本的に人間関係の中でマイナスになるものに、本来は価値はありません。

つい思ったままを口にしてしまう。

真面目に振る舞わなければならないところなのにふざけてしまう。

「これは絶対にしないで。」と禁止されているのにそれをしてしまいたくなり、本当に実行する‥etc

こちらから愛想を使って、それ相応の愛想を返されなければ悲しくて腹立たしくてたまらなくなるので、無感情、無反応なクールキャラを演じる‥‥。

発言や態度で人や周囲を傷つけてしまったが故に孤立しているのに、それを認めずに、いや、認めてはいるのだけれど何を血迷ったか、「こんな自分の特性を理解しない周囲こそ自分に比べて感受性が鈍く、人や世の中に対する認識が甘い。」と、誰からか何からか吹き込まれた認識を採用してさらにそれを発信して増長する昨今が、自分には難解です。

10代の若者にはよく以下のように話します。

学校の勉強も満足にやり終えていないのに、大人になって誰かに何かを学んで偉くなった気になって、世の中や人の在り方について語ってはいけません。間違っても未来の予測を体感できることなどないし(「なぜか頭痛がすると思ったら、子供が転んで怪我をした。頭痛はそのサインだったのだ!」など)、「こうすればこんなに簡単なのに、それに気づいていない人が多い。」なんて上から目線で語れる資格もありません。

何かの観点から「自分よりエネルギーが下。」とか、相手を格下に見ることも笑止千万です。

繰り返しますが、目に見えないことを理解したいなら、身に見えること(国語算数理科社会英語など)を、自分の限界までやり切ることです。それが順序であり秩序なのです。目に見えないこと(「なぜこのような現象が起こるのか。」など)は目に見える勉強より遥かに難しいのです。

よって、目に見える勉強をやり逃げしてて、理解できる道理はありません。つまり学生時分の勉強は大切。大人になって、人生に苦しんで、救いや癒しを求めて精神世界の勉強を学んでも、殆ど理解、吸収できません。

もし教えてくれる先生がいたら、よく注意して下さい。その先生は幸せか?自分の身は自分で処せる程度の経済力はあるか?親子関係を語るなら、自分自身が子供を持ち、寝食を共にして育てた経験はあるか?夫婦関係を語るなら、配偶者を尊重し、幸せにしてきたか?

それらが成し遂げられていないのに人としてあるべき姿を語るのは、例えると算数もまだ勉強していないのに、「さんすうなんてかんたんだよ。けいさんがちゃんとまちがわずにできたらいいんだよ。」と言う幼児と同じくらい滑稽なのです。

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幸い、こちらの言うことを受け止めて、自分のできる勉強を苦しい時もあれど妥協なくやり遂げた生徒は、逞しく社会人として世のため人のため自分のために頑張ってくれています。