痛手を負わすことなり

『痛手を負わすことなり』

とある剣道の達人が、極意を問われて答えたのがこの言葉。

スキがあるところ、打たれれば痛いところを容赦なく強打する。すると、その痛みを二度と経験すまいと、打たれた側(弟子)は技を磨くようになる、という理屈。

親として、または指導者として子供達を見ていて、痛手を負わすことが必要であると感じます。

たくましさを身にけてもらおう、より良く生きてもらうために頑張らせようとすると、時として子供は泣き叫んで抵抗します。その姿を見て、助け舟を出したくなる、勘弁したくなる時はしょっちゅうです。しかし、そんな情けほど結果として酷いのでは?と、最近つとに思うところです。

よほどに自律できている子供ならまだしも、大概の子は、本当に自分が恥をかいた、心底困ったという目に遭わなければマイナス行動を改めません。

遅刻する、宿題を出さない、自分の洗濯物を放置、学校からの連絡プリントをすぐに親に見せない‥‥などなど、子供のマイナス行動には枚挙に暇がありませんが、これらはやはり大人が先回りして気遣って御膳立てしてばかりでは、いつまで経っても子供自身で自覚して改善することはありません。

叱りつけたり罰を与えたりする方法もありますが、子供の自覚が芽生えるよう、大人側でできる努力は最大限にしてやるのも責務です。

具体的にどう、というのはこの度は省きますし、まだまだこちらも試行錯誤の真っ最中なわけですが‥‥。

やってはならないことは、子供のグズリや押しに負けて、大人側がやってあげてしまうことです。

泣くから、学校で困るだろうから、と子供を気遣う気持ちは分かります。自分も我が子についなんでも完璧にお膳立てしてやろうとして、慌てて手を止めることがよくあります。

してくれて当たり前、普通できているはずだ、という前提は、依存であり、甘えにほかなりません。それは他者、親を軽んじている、舐めているから出てくるものです。

できることは何でも自分でやる。他人に頼らない。他人のせいにしない。

自分が他者依存、マザコンなだけのくせに、いっぱしの個性(特性)を持ったキャラクターだと勘違いして、自分の気に入らないことは全く我慢せず、集団の流れに敢えて合わせず、どこかで悪目立ちして常に自分に関心を向けてもらおうとする子供の行く先は、言わずもがなです。

自律(自立)した一個の人間としてたくましく生きていけるよう、大人はお膳立てして放置してやることが必要ではないでしょうか。